【5.戦時大合併】

米軍の空襲にも耐え現役の高架橋(田端-赤土間)
米軍の空襲にも耐え現役の高架橋(田端-赤土間)

 1920年代後半に起きた世界的な金融恐慌はやがて日本にも大不況をもたらし、北総鉄道や茨城の中小私鉄群もその影響をこうむった。


 北総鉄道においては、不況による金融不安が出資者たちの資力を奪い、もはや財閥の支援をもってしてもその拡大策は行き詰まりを見せ、日光・那須延伸計画も頓挫することとなった。また、農村経済の疲弊は各私鉄の経営をジリ貧状態に追い込んだ。

 そんな中、1931(昭和6)年に満州事変が発生。軍関係の人員・物資輸送が増大し、にわかに鉄道輸送は活気付いた。しかしそれは一時的なもので、戦争の激化とともに鉄道運行に必要な物資(ガソリン、石炭、鉄など)が不足・騰貴し、各社は苦しい経営を強いられることになった。


 やがて日本は、日中戦争の泥沼から抜けられぬまま、1941(昭和16)年には太平洋でも戦端を開く。このような情勢のもと、鉄道の担うべき輸送需要は激増し、鉄道業界は一層の効率化を求められた。そのため、この頃より会社の枠を越えて、各路線で物資や車両の融通が行われるようになる。

 翌1942(昭和17)年には私鉄輸送の戦時体制への移行の総仕上げとして、陸上交通事業調整法に基づき、多くの私鉄が各地域ごとに統合されることになった。茨城県も例外ではなく、県中部では茨城交通が誕生、南部でも北総鉄道を中心に常総鉄道、筑波鉄道、鹿島参宮鉄道、竜ヶ崎鉄道、筑波山鋼索鉄道および周辺のバス事業者が統合され、同年、新常総鉄道が誕生した。


 この統合には、茨城県の私鉄群の整理という側面とともに、川崎系鉄道の一元化という目的があった。

 前述のとおり、北総鉄道と常総鉄道は資本的なつながりがあり、また、その他の各私鉄にしても、茨城県下で鉄道事業を営む以上、多かれ少なかれ川崎財閥の影響下にあった。そのため新常総鉄道の合併は、他地域の私鉄合併に見られるような軋轢は少なく、比較的スムーズに進んだという。この時誕生した新常総鉄道が、現在の常総急行のアウトラインを形成した。