【6.甦る鉄道網、そして常総急行へ】

国鉄より新常総へ貸与されたC11けん引の買出し列車(S21頃・撮影地不明)
国鉄より新常総へ貸与されたC11けん引の買出し列車(S21頃・撮影地不明)

 1945(昭和20)年、長く辛かった戦争は、日本の敗戦により、ようやく終結を迎えた。


 戦争は終結したものの、戦時中に酷使してきた施設や車両の疲弊は甚だしく、また、石炭やガソリンなどの不足もあって、列車の運行は困難を極めた。その一方で食糧・物資の輸送や都心からの買出し客、復員軍人の輸送などを行わなければならず、輸送状況はむしろ戦中以上に悪化していた。新常総鉄道でも溢れかえる乗客をさばく為、危険を承知でガラス窓や戸が破損した客車を動員したり、無蓋貨車に乗客を乗せたりしたが、輸送力の低下はいかんともしがたく、沿線で収穫された農産物が駅に滞留し腐ってしまうなど、関係者は多大な苦労を強いられた。


 このような深刻な輸送力不足に直面した新常総鉄道は、石炭の騰貴や不足に備えて1947(昭和22)年に船橋線を電化した。また、その翌年からは運輸省から63形電車を譲り受けたり、戦災で焼けた省線電車を譲り受けて復興したり、運輸省規格型電車を新造することで、慢性的な車両不足を解消しようとした。こうした努力の甲斐あって、1950(昭和25)年頃には戦前の輸送水準まで回復、稼動車両数も戦前並みにまで回復した。

 戦災復興たけなわの1948(昭和23)年、新常総鉄道は社名を常総急行鉄道に改めた。この改称には「戦時中に、半ば戦争のためにつくられた会社の名前を、戦後も名乗りつづける必要はないだろう」という経営陣の判断が働いたというが、物資不足や施設の荒廃により、「急行」とは名ばかりの鈍足列車が戦後しばらくの間走り続けたのは言うまでもない。ただ、社名の変更によって「戦時臭」を消し去り、社員の士気や乗客の評判を高めたことは評価できるだろう。


 社名の変更に続いて行われたのは、路線網の再編であった。というのも、北総鉄道以来の本線である三ノ輪-古河間は、結城線、宇都宮線や田端支線の開業により、もはや常総急行鉄道のメインルートとは言えなくなっていた。そこで1951(昭和26)年、路線名を輸送実態に合わせて整理すべく、従来、古河線、結城線、宇都宮線とぶつ切り状態にあった田端-野田市-下総境-結城-宇都宮間を宇都宮線に一本化、古河線は下総境-古河間のみとし、三ノ輪-武蔵八幡間を葛飾線に改称して支線格に格下げした。

 また、1960(昭和35)年には社名から「鉄道」を取り払い、常総急行に改称した。この当時、「鉄道」を名乗ることはすなわち信用につながることを意味し、鉄道を廃業した企業でも鉄道を名乗りつづけることがあった時代にも関わらず、常総急行ではあえて社名から鉄道を取り払うことで旧来のしがらみから脱却し、今まで以上の飛躍を周囲に宣言しようとしたのである。ともかくも、当時としては常識はずれな社名変更は人々に少なからず驚きを与えたことだけは確かであった。そして事実、常総急行はこの先、都心と茨城において、大いなる飛躍を果たすのであった。