【2.北総鉄道の拡大】

電化黎明期の名車・50形(野田市駅前にて静態保存)
電化黎明期の名車・50形(野田市駅前にて静態保存)

 開業後、北総鉄道は「水運の代替」という当初の目的を果たし、成績はすこぶる好調であった。これを受けて北総鉄道の首脳陣は、川崎財閥の資力と政治力を背景に、積極的な拡大策に打って出た。その最たる例が度重なる路線の北進であろう。

 
 まず北総鉄道は、1918(大正7)年に下総境から結城への免許を出願する。古くからの城下町である結城は、農産物の集散地や染織業の盛んな地として栄え、この当時すでに省線(水戸線)が開通していたが、東京と直結した鉄道を持たないことから、街の凋落が危惧されていた。

 北総鉄道は、このような危機感を持っていた結城の有力者たちに出資と支援を働きかけ、1921(大正10)年に第2期線として下総境-結城間(結城線)を開通させる。

 
 北総鉄道の北進政策はなおも続き、結城開業の前年、早くも北総鉄道は第3期線として結城-宇都宮間(宇都宮線)の免許を出願している。また、都心側でも、山手線との直結を目指し、動坂(田端)-武蔵八幡間(田端支線)で免許を出願している。

 前者は当時、栃木県の政治・経済の中心となりつつあった宇都宮へ進出し、また、後に那須や日光へ進出する際の橋頭堡を築くことを目的とし、後者は山手線と接続することでライバル私鉄、特に東武へのアドバンテージを獲得することを意図していた。

 こうして結城-宇都宮間は1925(大正14)に開業、動坂-武蔵八幡間も関東大震災の影響や田端機関区をオーバークロスする工事が難航し、開業が大幅に遅れたものの、1932(昭和7)年に全通している。


 また、路線の電化も徐々に進められ、1925(大正14)年に三ノ輪-野田町間、1928(昭和3)年には野田町-結城・水海道間、1930(昭和5)年には結城-宇都宮間および下総境-古河間でそれぞれ電車の運転が始まった。複線化も同様に進められ、1933(昭和8)年までに三ノ輪・動坂-結城間が、一部を除き複線化されている。