【8.都心直通線の建設】

かつての直通先終点・三田
かつての直通先終点・三田

 長らく常総急行は都心側のターミナルとして、三ノ輪と動坂という、北総鉄道以来のターミナルを使用していた。

 

 しかしながら、両ターミナルとも都電への連絡を目的として設けられたため立地に難があり、第二次大戦後、東京近郊および郊外が発展したことで急増しつつある利用者を受け入れるには力不足になると予想された。

 

 実際に、ターミナル駅の貧弱さは、朝夕ラッシュ時の混雑に一層の拍車をかけた。

 動坂駅は都電との接続のみで、その都電自体も都市交通の過密化とともに廃止が検討されており、動坂駅はターミナル機能そのものの喪失が危惧された。

 

 三ノ輪駅については、都電に代わり営団日比谷線と接続することとなったが、日比谷線自体が東武との直通運転に主眼が置かれた結果、日比谷線に常総急行からの乗客を受け入れる余裕はほとんどなかった。

 ことに朝ラッシュ時の東武線からの直通列車は常に満員で、途中駅の三ノ輪から乗り込むことは困難であり、積み残しが常態化していた。

 日比谷線における常総急行からの乗り換え客対策としては、かろうじて南千住始発の都心方面への列車が数本設定されたのみであり、対策は不十分であった。

 

 最後の頼みの綱である国電との結節点・田端も、山手線・京浜東北線ともに輸送力の限界に達しており、列車の増発も困難な状況であった。

 朝ラッシュ時は常急・国電連絡改札口にてしばしば入場制限が掛かるほどの激しい混雑に見舞われ、利用者の不満は日に日に増すばかりであった。

 

 乗客の中には、西新井で東武線、亀有で常磐線、お花茶屋で京成線に乗り換えるなどして、ターミナル各駅を迂回するルートを利用する者もあったが、接続先とて殺人的な混雑に見舞われており、根本的な解決とはならなかった。

 

 このような状況下において、新たに茨城方面への新線建設を実施すれば、ターミナル各駅及び接続路線がパンクすることは容易に予想できたため、常総急行は都心への新ルートを構築する必要性に迫られた。

 この常総急行の思惑もあってか、1962(昭和38)年、都市交通審議会は第6号答申において「常急線は都営6号線(三田線)と相互直通運転を行うべき」との答申を行う。この答申を受けて常総急行は、懸案であった地下鉄直通プロジェクトを本格的に始動し、1969(昭和44)年に動坂から白山へ連絡する地下新線の建設を開始した。

 

 そして1972(昭和47)年、白山連絡線の完成とともに都営三田線と常総急行線は白山駅を介して相互直通運転を開始し、常総急行は長年の念願であった都心-郊外間の相互直通運転を実現したのであった。

 また、これと前後して都電が廃止になり、動坂駅はそのターミナルとしての役割を喪失、地下線の中間駅に姿を変えた。昭和初期の竣工で趣のあった駅舎は駅としての機能を廃し、その姿を残したまま保存されることになった。

 

 なお、相互乗り入れ区間は当初、都営側は日比谷まで、常急側は八潮までとされたが、やがて都営側は延伸により三田まで、常急側の乗り入れ区間は野田市、ついで水海道・岩井市まで延伸された。