【車両史 前編】

1.黎明期(1910-1920)

 1915年に北総鉄道が開通した際に用意された車両は、鉄道院や他私鉄から譲り受けた旧型の蒸気機関車が15両、客車が40両、貨車が有がい車、無がい車あわせて60両余であった。

 

 開業後しばらくは旅客車両に大きな動きはなかったが、貨車については関東大震災直後に、帝都の復興需要にあわせて鬼怒川の砂利輸送用無がい貨車を大量に増備している。

 また、北総鉄道の有がい車は主に野田の醤油を運んでおり、木造の車体には醤油のいい香りがしみこんでいたため、他社線区に乗り入れても匂いで北総の貨車だと分かったと言われる。

2.電化(1920-1930)

 1925年、ライバルの東武鉄道の電化に刺激され、北総も三ノ輪と野田町の間を直流1500Vで電化する。これにあわせ、日車東京支店にてモハ1形電車が7両製造された。

 

 このモハ1形の登場が北総鉄道→常総急行における電車運転の端緒となり、電化区間の延伸にあわせて1927年には近郊各停用のモハ10形電車が18両、続いて1928年には急行用のモハ50形電車が10両増備され、電車は35両の大所帯となった。

 

 なお、これら一連の電車群の電装品には、ウエスティングハウスの系譜に連なる三菱系のものを使用している。

 

 また、特筆すべきはその車両の性格付けで、10形は各停用、50形は急行用という明確な棲み分けが出来ていた。この「用途に応じた車両設計」という思想は、北総→常総での基本姿勢のひとつとなる。

 

 以後、長距離列車や非電化区間は客車と貨車のミキストによる蒸機けん引列車、電化区間では電車でのこまめな運転と急行電車での速達運転が行われたが、当時の北総鉄道沿線はのどかな田園風景が広がるばかりであり、どちらかというと旅客輸送よりも貨物輸送の比重が大きかった。

 

モハ1形
モハ1形
モハ10形
モハ10形
モハ50形
モハ50形

電化黎明期を支えた電車たち。上からモハ1形、モハ10形、モハ50形。

3.戦中戦後(1930-1948)

 開業後、北総鉄道は順調に業績を伸ばし、新規路線の開業もあり、1935年の時点で電車35両、蒸気機関車21両、客車30両、貨車100両あまりを有する、関東屈指の大私鉄に成長していた。

 

 だが、順調な業績とは裏腹に、世相は戦乱へと突入していく。

 北総鉄道は第二次大戦中に常総鉄道、筑波鉄道、鹿島参宮鉄道、竜ヶ崎鉄道、筑波山鋼索鉄道を吸収し、新常総鉄道となる。

 その際、各鉄道に在籍していた多種多様な機関車、内燃動車、客車、貨車、果ては索道の搬器までを取り込んだことで、北総鉄道改め新常総鉄道の車両数は急激に増大した。

 

 しかしながら、戦禍の影響により満足に動ける車両は皆無で、電車は補修部品の不足により付随車代用や客車代用とされ、内燃動車も燃料の入手難により軒並み代燃化や機関を外して客車化されるなど、苦難の時代でもあった。大戦末期には酷使がたたり、機関車の稼働数が激減。急遽、鉄道省からC11形蒸気機関車を借り入れた記録も残っている。

 

 戦後も車両不足に伴う混乱が続く中、新常総鉄道は古い客車を地方私鉄に放出する代わりに、運輸省から63形電車の払い下げを受け、300形(のちの13系)と命名した。なお、63形の大型車体は新常総の車両限界・建築限界に抵触するため、新常総は駅ホームをはじめとする施設の改修を強いられることになるが、これが後の車両大型化の際に役立つことになる。

 

 また、この時期には17m級国電の払い下げを受け500形(15系)としたほか、戦災復旧車・雑形客車の台枠流用車(600形・のちの16系)も陣容に加え、車両状況は徐々に改善の方向へと向かう。

モハ300形(13系)
モハ300形(13系)
モハ500形(15系)
モハ500形(15系)
モハ600形(16系) 戦災国電復旧型
モハ600形(16系) 戦災国電復旧型
モハ600形(16系) 台枠流用型
モハ600形(16系) 台枠流用型

戦後復興期の「省線電車」群。

上からモハ63払い下げの300形、旧モハ31系払い下げの500形、戦災復旧車や客車の台枠流用車で構成された600形。

4.復興期(1948-1955)

 1948年、新常総急行は戦後初の新車として、急行用の100形(のちの11系)電車と各停用の200形(のちの12系)電車を製造。

 これは運輸省規格型と言われる、官民共同で制定した規格に則って作られた電車であった。

 常総では、これらの新車の製造と引き換えに、モハ1形を含む旧型車両を地方私鉄に放出している。

 

 これら2形式では、戦後間もなくという事情もあり、これまでウエスティングハウス・三菱系(HB)もしくは鉄道省系(CS)の電装品で占められていた常総において、はじめて日立系の電装品が導入された。

 爾来、常総と日立の蜜月関係は今日に至るまで続いている。

モハ100形(11系)
モハ100形(11系)
モハ200形(12系)
モハ200形(12系)

戦後まもなくの常総を代表する名車、100形と200形。

5.無煙化と高性能化(1955-1965)

 電車の増備がひと段落した1950年代中頃からは、非電化区間の無煙化ならびに著しく老朽化した雑形客車淘汰のため、ディーゼル機関車やディーゼルカーの導入が進められた。

 

 常総の車両発注先として、電車は日立偏重の風潮が強くなっていたが、内燃動車に関しては旧・常総鉄道や筑波鉄道などと取引のあった日本車両製造が重用された。また、沿線に工場を構える宇都宮車両(のちの富士重工業)でも一部の内燃動車が製造された。

 

 ディーゼル機関車は、常総がメーカーに発注するのではなく、各メーカーが試験的に製造した機関車を常総が借り入れる形で導入したため、線区毎に機関車のメーカーや形状が違うなどバラエティに富んだ。

 ディーゼルカーに関しては、国鉄で廃車になったキハ04・05形やキハ07形を大量に譲り受け非電化各線に配属。こちらも機械式変速機を有している車両や日野製の機関を搭載している車両など雑多な構成であったが、各線の近代化に貢献した。

 

 このように中古車ばかりであった常総の気動車であったが、1959年には、関東有数の観光地である筑波山を擁し、利用者・現場の双方から新車導入の要望が強かった筑波線に、戦後初の自社発注気動車である2500形が投入される。

 

 この2500形は、いわゆる「日車標準車」のひとつとして製造され、バス窓と張り上げ屋根のモダンな車体に、気動車では日本初となるエアサス台車を装着。当時の国鉄キハ10系及び20系を凌駕する装備を有した。2500形は、そのスマートなデザインを活かし、筑波線のロマンスカーとして活躍したほか、筑波線での好評を受けて増備の上、常総線及び鉾田線にも投入され、常総の気動車の顔となった。

キハ2500形(82系)
キハ2500形(82系)

 一方の電車であるが、1950年代後半より、軽量車体と軽量高回転型電動機、それに多段式制御器を組み合わせたいわゆる「高性能電車」が私鉄各社で競うように開発されていた。常総においてもその流れは変わらず、日立製作所の協力も得て、1955年に1000形(のちの21系)電車として結実する。

 

 この1000形電車は、Mc+Mcの2両編成で、18m級片開き3ドアの車体に直角カルダン駆動の足回りを備え、日立製のKBD系台車によるすぐれた乗り心地と、MMC系多段制御器による滑らかな加減速が可能な、いわゆる「高性能電車」であった。さらに1958年には、1000形をTc+M+M+Tcと長編成化し、あわせて編成内での機器配置の適正化を図った1500形(のちの22系)電車が登場。

 

 これら2形式の登場で、常総急行の電車は高性能化への道を辿り始める。

 

1000形(21系)
1000形(21系)